当時ファリサイ派の人たちは、神の民であるユダヤ人が侵略者である異邦人ローマに税金など納めるべきでないと考えている人たちが多かったようです。しかも、そのデナリオン銀貨には皇帝の像が刻まれており、そこには「神にして大祭司」という銘が刻まれていましたので、こんな冒涜的な皇帝に税金を納めることは律法にかなっているのでしょうかと、「回し者」が尋ねます。これはイエス様を陥れるための質問でした。もし、かなっているといえば、「異邦人の神に頭を下げた」と訴える口実を作ることになるでしょうし、かなっていないといえば、「ローマ帝国に反逆した」と訴えることもできたからです。
しかし、イエス様の答えは、鋭いものでした。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエス様は言われました。
皇帝の像があることを承知した上で、現在その貨幣を利用しているわけですから、当然皇帝に負い目があると考えられるわけで、それならその像の人に税金という形でその負い目を返すことは当然です。しかし、人間はすべて神様の像に似せて創造されているのだから、その存在を神様にお返しすべきだとイエス様は語るのです。皇帝にも、神にもという答えであり、貨幣の像は変わっても、神様からの像は変わりませんから、税金はそのときの為政者に支払われるべきですが、神様に対して人間は常に、創造、いのちの付与という負い目をもっているのですから、しっかり、自分の存在をとおして、すなわち、賛美、礼拝、礼拝者としての生き方を通して神様に義務を果たしなさいとイエス様は語りました。
あなたにも私にも、神様の像が刻まれていて、私たちの麗しさが表明されるときには、その像がそれぞれに見事に提示されているのです。罪を犯しているときには、その像はゆがめられているのです。
社会的な義務と神様への義務というと言葉が重くなりますが、私たちは神様の恵みの中で、そのどちらも無視しないで生きていく必要があります。しかも、これは同列ではなく、まず神様への感謝が先立ちます。この世の社会は移り行くものだからです。
神様の祝福がありますように。